余市町でおこったこんな話 その85「竹鶴さんとスポーツ」

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(ニッカウヰスキーの軟式野球チームが北海道大会決勝で負けて)…『お前、なぜ泣いた?』と尋ねられた。『くやしくて』とお答えしたら、『くやしくて泣くなら、泣かなくてもいいように練習しろ』とハッパです。野球でも仕事でももっと努力しろということなんですね。」(松尾秀助著『琥珀色の夢を見る』)
竹鶴政孝さんはご自身がスポーツに親しむだけでなく、余市町のスポーツ振興にとても熱心でした。
現在は2代目になる竹鶴シャンツェは、最初、桜ケ丘シャンツェという名前で、今よりもヌッチ川下流方向にありました。昭和10年代には地元のジャンプ競技人口が増加し、正式なジャンプ台を望む声が高まりました。昭和16(1941)年の夏、余中(現余市紅志高)生徒は夏休みを返上してジャンプ台の土台となる土盛り工事に明け暮れました。無事完成したあとの祝賀会が余市中学校で催され、ニッカ社製の飲みものが提供されました。竹鶴さんはこの頃に余市スキークラブの会長に就任され、資金面での協力をされたようで、氏の談話として「(竹鶴さんが)ジャンパー養成の急務を藤田道議からたのまれていた時、桜ヶ丘シャンツェの話がもちあがった。…(中略)…桜ヶ丘の地主と折衝、寄付に近い形で確保、勤労奉仕でつくったが、費用は2千円(当時)くらいだったと思う。」といったお話がのこっています(『余市文教発達史』)。
竹鶴シャンツェから世界に羽ばたいた余市ゆかりのジャンプ選手の輝かしい戦績は皆さんご存知のとおりです。
竹鶴さんは昭和22年、余市町体育連盟の初代会長に就任しました。その4年前、桜ヶ丘シャンツェの完成とほぼ時を同じくする昭和18年ころ、竹鶴さんは余市町に総合的な運動公園をつくることを提唱しています。
余市川沿いに細長く伸びる運動公園の一帯は当時、十数人の土地所有者がいました。川に近かったためにしばしば起こる氾濫や、湿地が多いことから農耕に適さない土地と判断した氏は、こここそが運動公園敷地にふさわしいと考えて、連日自転車にまたがって地主さんを説得する日々を重ねました。土地を手放すことを納得してくれない人へは私費を投じてその土地を購入し、最終的には4万8千平方メートルのまとまった土地を一括して町に寄付することができました。寄付された日は、偶然なのか昭和24年12月25日のクリスマスでした。
翌年から町民が「総出」でグラウンドづくりに従事、同39年には余市川の堤防築造のために5千7百平方メートルを北海道に提供、同42年には陸上自衛隊の協力で全敷地にわたっておよそ1メートルの盛り土工事が行われました。同44年から2年間にわたって本格的な工事が開始、自由広場、テニスコート、野球場、子ども遊園地、バレーコート、花壇、休憩所、記念塔ができあがりました。
運動公園の野球場入口の手前に「頌徳」と刻まれた石碑があります。竹鶴さんへの感謝の気持ちがこめられた記念碑で、公園完成までの経過と土地の提供にかかわった人たちのお名前が刻まれています。昭和18年の構想から完成まで28年の歳月を要した運動公園は、さまざまな関係者の努力のたまものですが、夢を実現するために皆の先頭に立った竹鶴さんの無私の行動力なくしてはできないものでした。

写真:頌徳の碑

写真:頌徳の碑

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