その153 幸田露伴の余市脱出

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「眼前に刺激物があり、欲はあるがお金はない、希望はあるが望みは薄い、よし突貫(一気にやり遂げること)してこの逆境から抜け出そうと決心した。」
『五重塔』などが代表作として知られる明治の文豪幸田露伴は、明治18(1885)年7月から同20年8月まで、現在の水産試験場近くにあった余市電信分局で電報の収受をする電信技手として働いていました。冒頭の一文は文学への夢が捨てられず、任期途中に職を捨てて東京へ向けて脱出した、氏の『突貫紀行』の意訳です。
幸田成行(しげゆき)青年は、明治16年に逓信省が設立した電信修技学校に学び、築地の中央電信局に勤務した後、18歳で十等技手として余市に赴任しました。下宿先は局舎があった場所に近く、現在の余市町農協西部支所あたりでした(「露伴と余市電信分局」『にしんりんご郵便局』所収)。
同書中で引用されている「忘れえぬ事ども」には晩年の露伴が余市に赴任した時の回想が見えます。横浜から出帆した船が函館経由で小樽港へ着き、そこから徒歩で赴任したことや、ニシンが大漁だった余市のにぎやかさを伝えています。「余市には足掛け三年おったが、何時までも(電報の)キーをたたいてもつまらぬと考え辞表を出したが、なかなか許してくれないので、仕方がないから余市の戸長を勤めていた須藤という人に事情を打ち明け、身の廻りのものを全部買ってもらって旅費に代え・・・」と余市脱出の経過を述べています。
『突貫紀行』によると脱出行は同年8月25日の朝のこと、小樽に向かいました。宿をとった小樽の夜、市中は七夕祭りがにぎやかに催され、さまざまな形をした大小の行燈行列が練り歩いていました(旧暦7月7日)。翌26日朝、枝幸丸に乗った露伴は小樽を出帆し岩内港に停泊、27日寿都港、28日函館港に到着し、同日午後に「はばかる筋の人」(電信局の関係者か)に捕えられて様々に説得されました。しかし「頑として屈せず、他の好意をば無になして」函館にとどまります。湯の川温泉や函館市内に9月10日まで滞在した後、北海道を離れて東北へ渡ります。青森、盛岡、岩手、福島を経て東京に着いたのは同月29日のことでした。
この脱出行の途中で得た句「里遠しいざ露と寝ん草枕」から露伴の名前が生まれます。
「忘れえぬ事ども」には露伴の娘である幸田文(あや)さんの回想も見えます。病床にあった露伴の耳に届いた雨だれの音が「ツートン」という電報をうつ音に聞こえるといったこと、余市の町で聞いた、魚を売り歩く女性の魚屋さん(イサバヤさん)の「テックイ買ワネーガンスェー」(ヒラメ買いませんかー)の声真似をしたこと、余市で聞いたこの音や声が寂しく聞こえた父は「異郷にとり残されたような心境に打たれたのかもしれません」と述べています。
水産試験場敷地内にある石碑「文豪幸田露伴句碑」は昭和31年に余市郷土研究会によって建立されました。そこには「塩鮭のあ幾と風吹く寒さかな(からざけのあぎとかぜふくさむさかな)」の句が刻まれています。

写真:幸田露伴句碑

写真:幸田露伴句碑

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