その157 『余市』の刊行と阿倍比羅夫(その1)

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昭和46(1971)年1月16日の北海道新聞に「阿倍比羅夫は余市に来た 倶知安、史実ではない」の見出しが躍りました。記事には、倶知安商工会議所が今年、同町が開町八十周年を迎えるのを記念して「阿倍比羅夫えぞ地征討記念碑」を建設しようという動きをみせていること、それに対して当時の余市郷土研究会が、比羅夫が立ち寄ったのは余市であって、史実に基づかない記念碑建設は問題だと「反発」しているというものでした。これに対して、1週間後の同紙に「余市の"抗議"受け流す"学会でも定説ない"と」の倶知安側からの主張が掲載されました。倶知安側は、(1)比羅夫の地名と木碑が存在していること、(2)倶知安神社に阿倍比羅夫を祀っていること、(3)『日本書紀』に後方羊蹄に政庁を置くという記述があることを挙げています。同町の商工会議所が記念碑を建てようとしたのは、地元の青少年が歴史に興味を持ってほしいとの願いからであり、はっきりした史実を曲げて建設するわけでもないし、「余市にも倶知安にも来たということであってもいいのでは―」との声もありました。
『日本書紀』は奈良時代の養老4(720)年に完成した最古の正史で、持統天皇(~697)までの歴史が記録されています。阿倍比羅夫は、生没年不詳、7世紀後半の武将で『日本書紀』によると、斉明天皇4(658)年に越の国(福井県から新潟県域にわたる日本海岸)から大船団で日本海岸の蝦夷を制圧していきました。記録には「渡島」「胆振」「後方羊蹄」といったなじみのある地名があらわれます。また、比羅夫が大河のほとりで「粛慎(しゅくしん)」という民族と接触し、アイヌ民族からの救援要請を受けて戦闘したことも書かれています。さらに「後方羊蹄」という場所に、国家の出先機関となる役所をおいたとされます。
新聞報道の20年ほど前、余市郷土研究会は比羅夫が来たのは余市町だったのではと考えました。
昭和28年、当時の郷土研究会は、その名もずばり『余市』という冊子を刊行します。この前年、明治大学法史学研究室内にあった地方史研究所が余市郷土研究会の依頼をうけて、余市町の遺跡を中心に調査し、それをもとに、阿倍比羅夫の蝦夷遠征に関する論考を中心に報告しました。
同書中の「調査日誌」を見ると、地方史研究所所属だった滝川政次郎さんと島田正郎さんらが同27年10月2日から同月9日までの8日間に、町内各地や小樽市、さらに足を延ばして古平町、積丹町へも調査におもむいています。余市町で最初に一行が訪れたのは、登川の新しい河口でした。難破船の財宝が出たと騒ぎになったところです(「余市町でおこったこんな話 その105」)。
その頃は、現在の国道5号線の海側に今よりも広い砂浜があり、当時は長さ200メートルほどの大きな盛土が10メートル程度の間隔で3本、線路と平行に並んでいたことを報告しています(写真)。
そこからは、報道されたもの以外に、鍋、湯沸(釜?)、刀、陶器が見つかっていて、「この春」には中世の銭が「一串」発見されたというお話も紹介しています。
積丹町美国や小樽市の「古代文字彫刻」を見たとの記述も興味をひきますが、比羅夫が余市へ来たという証拠をつかむことは出来なかったようで、再調査を希望して「日誌」は稿を閉じています。

写真:地方史研究所が訪れた頃の登川河口付近(「余市」所収写真)

写真:地方史研究所が訪れた頃の登川河口付近(「余市」所収写真)

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