その158 『余市』の刊行と阿倍比羅夫(その2)

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日本の古代国家が大化の改新を経てまとまっていく7世紀頃、大和朝廷の覇権が東北地方へも拡大されました。その支配の外、東北や北海道にあった人々を指して蝦夷や夷、毛人の漢字があてられて、エミシやエビスと呼ばれました。この頃、北海道はアイヌ文化の前の時代、擦文文化が栄えていました。
中央の有力な豪族であった阿倍比羅夫が、東北や北海道の蝦夷を征討する記事が見られるのが『日本書紀』で、阿倍比羅夫が大船団を率いて北に向かい、「政所」「郡領」(古代国家の役所)を置いた「後方羊蹄」という場所はどこなのかという論争を紹介したのが前号でした。
「後方羊蹄」は余市町であると唱えたのが、同研究所の滝川政次郎さんでした。「後方羊蹄」を「シリパのあるヨイチ」と考えたのでした。
地方史研究所から刊行された『余市』での滝川さんの主張では、「後方」を「シリヘ」と読み、それがシリパとなったこと、阿倍比羅夫らの船団が目印にしたのは、その形がとても目立ったであろうシリパ岬だったこと、「羊蹄」はアイヌ語のイオチ(蛇の多いところ、諸説あり)がヤウテイと聞こえて、これに漢字をあてて「羊蹄」になり、「羊蹄」は後に字格(画)が少ない余市の字に書き改められたものだという主張でした。それを政庁が置かれた場所の根拠にしたのでした。
余市郷土研究会はその後も、寿都町や黒松内町などへの現地調査を繰り返し、比羅夫北征の証拠を探しましたが、本格的な発掘調査によるものではなく、論争は下火になりました。
昭和50(1975)年、「比羅夫が来たのは余市説」を唱えた郷土研究会が中心となって、阿倍比羅夫の記念像建立協賛会が立ち上げられ、シリパ岬の麓に「阿倍引田臣比羅夫之像」が建立されました。石碑の碑面には想像画と思われる比羅夫の肖像画や『日本書紀』の文章、後方羊蹄は余市である旨の宣言などが刻まれ、背面には建立協賛会の面々のお名前が見えます。台座には長い間の課題であった「後方羊蹄」の場所が余市であるとの「結論」を得たとも刻まれました。
その後、平成元(1989)年になって余市川河口の大川遺跡の発掘が始まると、7世紀の大刀や奈良時代の役人が帯につける金具(写真)、漢字が刻まれた土器などが出土しました。
これによって余市町が古代の流通拠点のひとつであったことが学術的な根拠をもって指摘されるようになりましたが、同じように東北各地や道央でも古代の人や物の交流を示す発掘成果がどんどんと新たになってきています。
大化の改新の頃、比羅夫に率いられた大船団がシリパ岬を越えて余市川河口に停泊し、「粛慎(しゅくしん)」という民族(オホーツク文化の人々か)と接触したというロマンある可能性はなくなってほしくないと思いますが、船団の停泊地は余市川の他に、上ノ国町天の川や石狩川もその候補にあがりそうです。

写真:大川遺跡から出土した帯金具

写真:大川遺跡から出土した帯金具

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