余市町でおこったこんな話「その187 ニシンを追ってきた人」

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明治時代、北海道内各郡の開拓状況を報告した記録には、その町にどこの府県から人がやってきたかが記されているものがあります。余市町では畚部(ふごっぺ)村に秋田、山形、香川の各県から、以下同様に大川町(秋田、青森、新潟、石川)、黒川村(和歌山、秋田、山形、香川、福島)、山道村(青森、徳島)、山田村(秋田、福島)、余市市街(青森、秋田、新潟、滋賀、石川、福島)、沖村(青森、秋田)と、各町の住民の出身府県が記されています。畚部村は現在の栄町、山道村は豊丘町、余市市街は沢町、富沢町、港町、梅川町付近、沖村は豊浜町、白岩町、潮見町をさします(『北海道殖民状況報文 後志国』)。
これらの人たちは、開拓のために明治時代以降に余市に来た人たちでした。前述の報文では余市市街の項に「明治維新前ノ出稼者ニシテ現存スルモノ」が23戸、沖村でも同様に12戸が住んでいたと報告されていて、彼らは江戸時代からニシンを追って来た人たちでした。
江戸時代の中頃までさかのぼると、安永2(1773)年、松前藩士の松前平角が上ノ国の漁民83名を引き連れて余市に来たとする記録があります。『余市町郷土誌』によると、「上の國石崎村の和人八十三人、命により京都伏見稲荷の神璽(しんじ)を受け余市場所に来たり、山碓(港町付近)濱中の二村を開き小屋掛をなし番屋を設け漁業を営み、漁期後も道路の開鑿(かいさく)、海産干場(かいさんかんば)の開拓等をなし帰郷に際しても番人を残すに至った。」とあります。その後、ニシンやサケの漁は運上家、もともと住んでいたアイヌの人たち、松前藩領地の前浜が不漁になって蝦夷地に出稼ぎして漁をする人たちの三者によって行われます。次第に出稼ぎ漁民の数は増え、運上家やアイヌの人たちを圧倒しました。
林家文書(余市町指定文化財)によれば、幕末にすでに永住していた人は、安政3(1856)年67軒259名(内男130名、女129名)、その14年後の明治3(1870)年には家数128軒、423名(内男222名、女201名)と家数が倍増するほど大幅に増えています。出稼ぎして来る彼らの母村は、江差および松前地方が12村、津軽(青森県)が4村で、なかでも上ノ国塩吹の26人、津軽脇元の20人が突出していました。上ノ国から来る人たちの流れは幕末まで続いていたようです。
出稼ぎして来る人たちは刺網や大型の網(笊網:ざるあみ)でニシンをとりました。ニシンを原料にして作る肥料の需要が高く、ニシン漁はとてもさかんになり、漁獲量のより多い定置網をもつ出稼ぎ漁民が増えました。不漁の年には刺網漁をする人たちを困らせることもあり、網の規格や操業開始時期、夜間の操業停止と操業時間など約束事を運上家とかわすことがありました。そうした交渉ごとを担った中に、上ノ国出身の人の名前が複数見られます。
明治になってニシン漁はよりさかんになり、やがて幻の魚と呼ばれ、今またもどってきています。幕末から余市で漁をしていた人たちは、明治以降も上ノ国出身の人たちも含めて、引き続き余市で活躍されました。 さらに他府県の人たちもニシンを追ってやってきたので、余市はますますにぎやかになりました。

図:笊網(ざるあみ)の図(『北海道水産豫察(よさつ)調査報告』)

図:笊網(ざるあみ)の図(『北海道水産豫察(よさつ)調査報告』)

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