余市町でおこったこんな話「その200 ニシン場の親方の出身地」

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4月になりました。季節の変わり目は職場や学校の新しいスタートでもありますが、ニシンがきていた頃は鰊漁まっただ中で、町じゅうが大忙しの日々でした。「鰊御殿」を各地にのこした経営者、親方は地域の経済を担っていましたが、その誕生は明治時代のことです。銀鱗荘の元の所有者、猪俣さんや、福原漁場の福原さんや後の所有者、川内さんは江戸時代から北海道にきていました。
猪俣安之丞さんは、天保11(1840)年に新潟県に生まれ、安政2(1855)年に渡道、慶応2(1866)年に余市町山碓(現在の余市町港町)に来村、ニシンやサケ漁、海産商、廻船問屋を経営、自らが経営または所有した定置網数は、明治30年代に20ヶ所を越えました。また福原さんは、幕末に、上ノ国汐吹から余市へ出稼ぎし、明治17(1884)年には浜中町に居をかまえました。川内さんの出身は近江国(現在の滋賀県)で、幕末には道南の松前に居住しながら余市へニシンを追って出稼ぎし、明治5年には沖村(現在の豊浜町、白岩町、潮見町)に居をかまえました。お三方とも幕末に北海道にわたっていましたが、彼らよりはやく余市にきていた先発組がいました。
江戸時代、蝦夷地での漁業活動は藩の許可を得なければ出来ず、運上家の監視下での操業でした。道南の和人地から蝦夷地に入ってきた漁民は、漁獲物(ニシン)の現物納の割合から「二八取(にはちとり)」とも呼ばれ、江戸時代後半にかけて増加しました。幕末のヨイチ場所での鰊漁獲高のうち3割が運上家、7割が二八取によるものでした。幕末のヨイチ場所で増加した二八取は、安政2年には、彼らが雇った漁夫をあわせて446名もいて、かれらの母村は、現在の上ノ国町、松前町、江差町が多く、江差と上ノ国町の汐吹村が突出していました。
上ノ国汐吹から余市へ和人が漁業のために来たという記録はとても古く、「奥寺家記録」に「安永年間 松前藩臣松前平角氏 余市場所ノ開祖ナリ安永二年山城国伏見稲荷神社ヨリ神璽ヲ受祭ル漁業者ハ渡嶋国檜山郡ノ人八十三人(後略)」というものです。この「檜山郡ノ人八十三人」の出身地が汐吹と伝わっています。安永年間(1772~1781)に蝦夷地に和人が移り住むのは難しいと思いますが、幕末の二八取の集団は上ノ国出身者が多く、この集団から、ヨイチ場所に何年も連続して来住し、やがて地歩を固めるものがあらわれます。弘化3(1846)年の林家文書の笊網(※)持一覧には「上ノ国 平蔵」、「上ノ国 久右衛門」、「汐吹村 利右衛門」、「汐吹村 勘右衛門」の名前がみえ、彼らは連続してヨイチ場所に来ていて、「浜名主」を名乗るまでになっています。
前述の猪俣さん、川内さんといった松前からの人たち、福原さんや奥寺さんなど上ノ国からの人たちの余市へ向かった人の流れは、最初は上ノ国グループ、続いて後発の松前グループ(江差も含む)がやってきたといえそうです。幕末から明治にかけて、大型網を使って操業する集団がどんどん増えたのは、蝦夷地産物のニシン製品(肥料)が、日本列島の経済の循環に欠かせないものになったことが背景にありました。

※笊網:大人数で操業する大型の網

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図:幕末のヨイチ場所の大型網の分布

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