余市町でおこったこんな話「その215豊浜小学校」

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「待てどできない校舎建築に余市町立豊浜小学校の児童たちはスシ詰授業を受けながら“早く校舎を建ててください”と切ない願いでいる」と新聞記事が掲載されたのは昭和32年2月3日のことでした。

豊浜地区は、明治時代以降のニシン漁や戦後の住友鉱山の活況があって人口が増えました。豊浜小学校の児童数が400人で12学級を超えた時期もあります。この頃の住友金属鉱山の職員数は66名、従業員(請負者含む)は700名の在籍を数え、関係者の家族を含めれば2千人を超える人たちの集落がありました。

しかし、その後の鉱山の閉山や漁業の不振によって、徐々に児童数は減少し、昭和61年3月に惜しまれながら同校は閉校しました。この時の小学生は4名、中学生は5名で、統合された沢町小、西中へ通学することになりました。

豊浜小学校の前身、余市郡沖尋常小学校は明治34(1901)年5月21日に町立の学校として開校しますが、それよりも前の同14年のこと、沖村湯内学校と呼ばれた校舎が建てられました。

当時、断崖の続く豊浜地区は市街地(沢町)方面に遠いため、通学するには著しく不便だったことから、地域の実力者である小黒由蔵さん、大村丑太郎さん、小黒喜三治さんらが相談して、湯内(豊浜町)、島泊(潮見町)、出足平(白岩町)の子どもたちが通える学校を建てました。教員は石橋虎吉さんという方でした。

島泊や出足平の子どもたちが湯内まで通学するのは大変だったので、その二地区からの児童が学校に来なくなると湯内学校の維持が難しくなり、競売にかけられそうになりました。ここで再び、小黒由蔵さんと小黒喜三治さんが中心となって地域に働きかけて、明治16年に「私立共同学舎」として再出発し、その後は地域の学校として継続しました。

明治34年、公立の沖尋常小学校設置が余市町会(議会)の決議によって決まります。昭和22年には西中学校沖分校ができて、それまでの小学校に中学校が併置されることとなり、翌23年には沖中学校の名称になります。沖中の教室はふたつでしたが、それでは足らず、小学校の教室を借りて授業を行っていました。

沖尋常小学校の最初の校舎は現在の区会会館のある広場にあって、豊浜教育発祥之地碑が建っています。

昭和8年当時、沖小学校は複式学級(2つ以上の学年をひとつにした学級)の学校で、教職員は2名(男性1、女性1、女性は裁縫代用教員でした)、島泊分教場は1学級の複式学級で、職員数は小学校と同じく2名(構成同じ)でした。この年の児童数は103名(男子59名、女子44名)、分教場の児童数は34名(男子18名、女子16名)でした。

昭和30年代の学校行事を見ると、お盆の行事として、午後は西瓜割り、夜は校庭での映画会開催などあって賑やかな様子だったようです。

鰊漁全盛時代の湯内大運動会(明治40年ごろ)

写真:鰊漁全盛時代の湯内大運動会(明治40年ごろ)

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