余市でおこったこんな話「その228 電話」

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日本で最初の電話交換は、明治23年(1890)の東京市内(当時)の通話と、横浜~東京間での通話でした。
北海道では明治33年3月の札幌電話交換局開業が、北海道の電話のはじまりとなりました。その時の市内の電話加入数は141回線でしたが、翌4月には小樽で257回線、6月には函館で320回線が開通しました。
余市町では、明治36年5月20日、沢町7番地(当時の地番、水産試験場付近)にあった電信電話局で業務がはじまり、余市の市内通話だけではなく、札幌、小樽、岩内との通話もできるようになりました(『にしん・りんご・郵便局』)。
当時の電話が利用されていた頻度をみると、明治40年度には市内通話が123件、市外通話が3,260件、翌年度は市内通話が91件、市外通話が6,117件とあります。
この頃は電話の加入者はとても少なかったので、電話のない家庭に連絡をとりたい人は、事前に通話料金を払った上で「呼出通話券」を発行してもらいました。
この券は郵便のように先方に配達されて、受け取った人が郵便局へ行って、電話をかけます。これを「呼出」と言いました。
同書によると、「(当時保管されていた図面では)窓口のまわし戸をあけたところの廊下の板間の奥の隅に電話室(凡一坪)がとられている。」とあります。
明治40年には電話機にまつわる様々なできごとがありました。この年の加入者数は99名、交換手と思われる女性職員5名もこの年に採用されています。
奥寺徳太郎さんから、余市と小樽の間の電話架設のために500円(当時)が寄付されました。
この頃の電話導入には「特設電話制度」という制度が適用されました。電話需要が急速に増加した時期、その要望に応えることができなかった逓信省(当時)が設けた制度で、市外電話と電話局内の設備は国が整備し、電話加入者と電話交換室のある郵便局を結ぶ架線と電話機などの機材を電話加入者の負担で整備させるというものでした。これは郵便局と加入者宅との間の距離によって負担する金額が異なることを意味したので、沢町方面に多かった加入者からすれば、局舎を移転することは費用負担が大きくなるので、反対の声が強くなることは確実でした。
明治35年8月から大正12年5月まで局長を勤めたのは岡崎重陽さんという方でした。
岡崎さんは、東京にあった電信修技学校に学び、モールス電信機による通信技術を修得するため、明治5年にイギリスへ留学した経験もありました。
また、岡崎さんは明治12年に開通した、東京~千葉間の電信線の工事を担当した技師で、江戸川の渡船場「市川の渡し」があった場所の河底に電信線を敷設し、これが日本人技師が電信線を水底に張った国内初の工事といわれています。
時代は下って、大正時代になると町内の加入者数は111名、昭和4年には292名を数えました。市内での通話回数は大正元年に400件だったのが、その後の10年間で急激に増加して、大正10年には1万件を超えるほどになりました。

フゴッペのトンネルとフゴッペ川周辺の様子(大正初期の漁場「栄町郷土史」)

写真:福原漁場にある壁掛式電話機

この記事に関するお問い合わせ先

総合政策部 政策推進課 広報統計係
〒046-8546 北海道余市郡余市町朝日町26番地
電話:0135-21-2117(直通)FAX:0135-21-2144

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