余市でおこったこんな話「その230 大川小学校」

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今年は沢町小学校が開校150周年、大川小学校が140周年、黒川小学校が120周年と開校記念の年です。

大川小学校は、明治15(1882)年1月14日、沢町学校(沢町小学校)の川村分校が、モイレ山の麓にあった公立病院跡に設立されたのが始まりです。当時の生徒数は25名でした。

その後、明治16年に川村分校は独立して大川学校と改称し、首座教員(校長)として、小樽量徳学校に勤務していた大竹忠さんが赴任しました。生徒の定員は初等科のみの40名、学区内の学齢児童は65名でした。大川学校の名称は、年が明けた明治17年3月9日に申請書を札幌県に提出して正式に認められました。

明治20年代初めころから、大川町の人口が増加して移転の声が大きくなり、明治24年春に着工、8月に落成しました。新しい学校の敷地面積は248坪、場所は大川4丁目、現在の即信寺説教所さんと三吉神社さんの間にありました。

明治27年には修業期限が3年から4年になります。この頃は国が女子児童の就学促進のために裁縫科の設置を奨励していた時期だったからか、明治28年の大川学校の在籍児童170名のうち女子の入学者が増えて55名になり、裁縫科が置かれました。

明治33年には、修業期限3年の高等科が設置され、翌年の認可によって大川尋常高等小学校となりました。この年には授業料の徴収がなくなり、児童数は392名と増えて校舎が手狭になり、半日づつの二部授業が行われます。

大川校の校長先生だった中村重次郎先生(明治44年~大正4年、大正12年~大正15年)は、当時の先進的な学習法を全道に紹介しました。中村さんは後志支庁で勤務していた時期に、後志管内各地の若手教員の研鑽のため、それぞれの目的に合った都府県へ派遣することに力を注ぎます。昭和3年、岩内から秋元元太郎先生(算教)と萩野弘先生(国語)、狩太(ニセコ)から富谷敬造先生(日本史)、昆布から高島幸次先生(国語)、余市からは大川尋常高等小学校の斎藤七郎治先生(綴方)が、倉敷、千葉、東京、広島、奈良等と様々な場所へ派遣されました(『余市文教発達史』)。

綴方教育とは作文を通して文章表現の能力を育む教育のことで、日常生活や経験を素材にした作文に力が注がれていました。大正時代末から昭和初めにかけて盛んだった時期、斎藤先生の綴方教育は、子どもの心情をとらえ、生活に深く関わった表現を工夫するよう指導したと言われています。

先生が指導した子どもの作文を読むと、当時の生活の様子が垣間見えます。

 

 井戸かえ

                 大川校尋六 氏名 ○○ ○○

日曜日のことであった。朝から気持ちのよいお天気なので兄さんが、「井戸の水が、あまりにごってきたないので井戸かえをしよう」と言うと、おじいさんは立って行って物置きから二斗樽を出してきました。

兄さんははだかになって、カッパと着かえてなわでしばった樽の中に入ってするすると井戸の中へ入っていった。…中略…間もなくきれいにかえられた。井戸の上へきれいなゴザをかぶせて、その上に更に塩を入れた皿とお酒をついだ。これはきっと、きれいな水が湧くようにとお供えするのだろうと思うが、それでも今日は帰ったら聞いてみよう。

 

(井戸かえは、井戸替えと書き、井戸さらえともいいます。井戸の大掃除のことで、終わるとお酒や塩をお供えました。古くはお盆を迎える前の七夕に行われるみそぎの行事でした。)

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総合政策部 政策推進課 広報統計係
〒046-8546 北海道余市郡余市町朝日町26番地
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