余市でおこったこんな話「その249 北見恂吉さん」
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円山公園に「鎮魂歌の碑」があります。題字は北見恂吉(きたみじゅんきち)さんによるもので、以前は茂入山の明治神社境内にありました。「雪のあしたいさぎよく」で始まる歌は昭和43(1968)年に北見さんが詠まれた戦没者の慰霊の歌です。
北見恂吉の名は、明治神社宮司だった鈴木重道(すずきしげみち)さんの筆名(ペンネーム)で、重道さんは明治35(1902)年2月、稚内市に生まれました。
父の鈴木重任(すずきしげとう)さんは余市神社の宮司を務められ、明治45年に明治天皇が崩御された後、奉拝殿を建立することとなり、重任さんが有志にはたらきかけて、大正2(1913)年、茂入山に完成しました。
明治神明社と名付けられ、祭神を明治大帝、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、大綿津見神(おおわたつみのかみ)、薬師主神(やくしぬしがみ)の四柱とし、重道さんが宮司を務められました(『余市町郷土誌』)。
重任さんの息子、重道さんは小樽中学校(現小樽潮陵高校)で学び、三重県伊勢市の神宮皇学館(現皇學館大学)を卒業、埼玉県の久喜高等女学校(現埼玉県立久喜高等学校)で教壇に立ち、帰郷して神職となりました。戦中は朝鮮半島におもむいて京城(ソウルの旧称)や平城(北朝鮮の都市)で神官をつとめ、戦後は再び帰郷して小樽高等学校(現小樽潮陵高校)、余市高等学校(当時)で教壇に立ちます。
小樽市出身の小説家で詩人、伊藤整(いとうせい)さんの『若い詩人の肖像』の中に鈴木重道さんとの出会いの場面が描かれています。伊藤さんは小樽市塩谷に住んでいました。
「私が、汽車で通学しはじめた中學三年の時、一番遠い余市町から、鈴木重道という五年生の級長が一緒に通ふようになつた。鈴木重道は、もうすつかり大人で、下級生の私たちを監督し、指導するような態度をし、しかもどことなく暖かな人柄であつたので、私はずゐぶん人見知りするタチであつたのに、忽ち彼の部下のやうにされてしまつた。…中略…しばしば私たちは、鈴木の家である余市町の大きな神社の社務所へ行つて泊ったり、海水浴をしたりして、絶えず一緒にゐるようになつた。」(大きな神社とは余市神社のようです。)
重道さんが記した汽車の中での様子です。
伊藤さんは苦手と感じていた英語の勉強をし、重道さんは島崎藤村(しまざきとうそん)の『藤村詩集』を読んでいました。
「ふと何かの気配を感じて見ると、伊藤がしきりに私の膝の上の詩集をのぞき込んでいた。読んでみたければ貸してあげるから見なさい。」
10日ほどして詩集は返され、重道さんは伊藤さんに質問しました。
「よかったの?藤村の詩は」
彼は黙って赤くなりながら頷きました。詩集の中にあった秋風をテーマにした詩、その前にあった和歌についての感想を聞いた時、重道さんは驚きました。
「私は詩の方がいヽと思いました。細かく、詳しく述べていました。短い歌からそれを全部感じたり述べることは出来ないことだと思うんです。」
重道さんが藤村の詩作から感じたこととは別の視点で伊藤さんが感じていることに驚き、彼の横顔を眺めて思いました。
「この男は詩人になるかもしれない。…中略…心おきなく詩の話をする友を発見しただけでも満足であった。」
伊藤さんと出会った1年ほど後には、重道さんは皇學館へ入学したので、春や夏休み以外には会うことがなくなりました。
重道さんは教壇に立ち、余市文芸協会短歌部会に入会して作歌に励み、昭和25年には歌誌「落葉松」、その10年後には「海鳴」を創刊し、歌集や随筆集を多くのこした、道内有数の歌人といえます。

写真 北見恂吉(中央)と伊藤整(右)(『少年譜』所収)
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