余市でおこったこんな話「その250 登街道の長屋」

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 JR余市駅の南側の踏切は、登街道踏切といいます。この踏切をはさんで伸びる登街道の正式な名称は北海道道753号登余市停車場線で、この道道は踏切から小樽方面に進み、高規格道の入口手前の交差点から山側に右折して冷水峠に向かう余市赤井川線まで伸びています。

 この道は明治時代の北海道開拓使による「余市郡持場境迠里数調書」に見えていて、その道沿いには「東開墾地黒川村」の家々が並んでいます。明治10年代には現在の黒川町12丁目あたりまでは家々の並びに沿って道があったようです。

 「東開墾地黒川村」は会津藩士団による開墾地にできた村ですが、余市川をはさんだ対岸にも「西開墾地山田村」が見えます。このふたつの村は会津藩士団が住む長屋が並んでいました。

 会津藩士団の移住は明治4(1871)年7月にほぼ完了しましたが、その前に住宅の建設が行われました。移住の予定地は余市川の下流、アイヌ語でシュプントー(シュプンは魚のウグイ、トーは沼)と呼ばれるところで、三日月湖が残る湿地帯だったそうです。

 移住前、住宅用の木材を購入するために人を青森に派遣し、入手した木材は函館で製材、船で余市まで運んだと伝わっていますが、会津から運ばれた材料もあったかもしれません(『北海道開拓秘録』)。

 住宅は1戸建て、2戸建て、7戸建てもありましたが、大半は5戸建てが多く、1戸の家の間口は2間(約3.6m)、奥行き4間半(約8m)、屋根は柾葺き屋根で石が置かれ、壁は板壁でした。

 玄関側の屋根は裏よりも3尺(約90cm)ほど延びていて、吹抜けの下家として両隣りの家との行き来の際に雨に当たらないようになっていました。中に入るとすぐに土間があり、中央に炉が切ってある部屋がひとつ、奥にもう1部屋がありました。床は畳ではなく、薄べり(畳の形をした薄い敷き物)を敷きました。

 同じ頃に琴似に建てられた屯田兵屋は5間×3.5間の大きさで一回り大きく、畳敷きの部屋が設けられた1戸建てだったので、大半が長屋に住むことになった会津藩士団の住宅状況は厳しいものだったと思います。

 黒川村に並んでいた長屋の連なりの西の端(余市川寄り)は現在の殉節碑の近くで一番村と呼ばれ、7軒の長屋が向かい合って並び、続いて二番村に5軒、三番村に3軒、四番村に6軒ありました。

 一番村と二番村の範囲は殉節碑から、にれの木通りの交差点あたりまで、三番村と四番村は現在の南北海道ヤクルト販売(株)さんの手前あたりまでのようです。明治35(1902)年には余市駅が開業したので、一番村の何軒かは立ち退いたと思われます。

 同様の五軒長屋は山田村でも並んでいて、最後まで残っていた住宅は昭和40年代には1棟全部をひとつのご家族がお使いでした。そのご家族の方の回想がのこっています。

 「前略…幾度か余市川の水害を経験したことで、土台石と接する部分が腐って切り詰めたことがありましたが、柱の中心はまだ生きており「ひのき」の強い香りを放ち、さすが木の王者と感心したものです。杉といい桧といい、皆会津から運んできたものです。

 その香りに祖父の故郷会津を、「こびき」の鋸の跡や「ちょんな」の削り跡に職人の苦労を感じたものです。天井の張っていない「はり」、むきだしの小屋裏に「囲炉裏」の「煙出し」がありました。(私が育ったころは冬はストーブ、冬以外の季節はいろりに炭火で、正面にはいつも着物姿で背筋を伸ばして正座し、キセルで煙草を吸っている祖父の姿がありました)」。

黒川新国道(『広報よいち』昭和35年1月1日発行)

図 長屋住宅の1軒の間取り

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総合政策部 政策推進課 広報統計係
〒046-8546 北海道余市郡余市町朝日町26番地
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