余市でおこったこんな話「その264 援農」
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「ほんの少し前から微かに聞こえはじめていた飛行機の爆音が急に大きくなり、やや遅れて沢町の方向でサイレンが鳴りはじめたのである。すわ(あっと驚く表現)…敵機の襲来だ……。」
これは昭和20(1945)年7月、小樽市立女子商業学校(当時)に勤務していたある先生の回想です。先生は女子生徒の引率でリンゴの袋掛け作業の援農のため、山道村(現在の豊丘町)に来ていました。先生の記憶では滞在中、雨がなく暑い夏でした。
援農とは、戦時中の労働力不足を補うために、旧制中学校や女学校の生徒(12歳から16、17歳)が農業や軍関係の施設で勤労奉仕をすることです。
先生は他の先生二人と一緒に、2年生40人ほどの生徒を連れて、地域の大きな農家の倉庫に2週間ほどの予定で滞在していました。生徒たちは6時に起きて朝食をすませて作業にとりかかります。
古新聞でこしらえた袋に、まだ小さなリンゴの果実を入れ、端をのりづけして閉じるという手順を繰り返します。慣れてくると一日に1,000個以上もかけられるものもいたと、先生は驚かれています。
地元余市高等女学校の生徒も、6月中旬からリンゴの袋かけを行っていました。昭和19年の同校の記録をみると、4月15日から月末までニシンの加工、5月初旬は役場裏手の時田山にあった学校農園でリンゴの木の虫駆除と草あつめ、5月22日から7月末までは草取り、種まき、苗洗い、馬糞運びの作業がありました。
援農以外にも、大日本果汁(ニッカウヰスキー)でブドウを加工した生徒がいました。軍需用の酒石酸製造だったのかもしれません(「こんな話その224」)。
任意だった援農は半ば強制になり、昭和19年には完全に援農が授業に優先するようになりました。
また、余市中と余市高女の体育館は陸軍運輸部船舶部隊、通称暁部隊(「こんな話その41」)の物資や資材置き場として使われ、学校行事などの集会は廊下で行われたそうです。
援農に励んだ生徒たちの中には、空腹に耐えられない人もいました。ある男子生徒は泊っていた援農先の農家をこっそり抜け出して、月明かをたよりに畑に忍び込んでトウキビを何本かもぎ取りました。やっと持ち帰ったところで、その家の親爺さんに見つかってしまいます。
「学生さんや、まだ実が入ってねえベサ。もう少し実が入ったらゆでてやろうと思ってたんだョ。あんまり乱暴すれば木(茎)を痛めてしまうんでな」と言われてしまいました。
冒頭の場面に戻ります。
先生は生徒たちに、大きなリンゴの木陰に隠れるよう大声で指示を出しました。敵機がどこにいるのか、生徒たちを守るためにどうすればいいのか、先生は状況を知るために近くにあった火の見櫓に登りました。半鐘に身を寄せながら耳をすますと、サイレンの音に混じって聞こえていたプロペラ音が大きくなってきました。櫓から見下ろすと、生徒たちは先生の位置からでは見えないくらいにうまく身を潜めていました。沢町方面に目を向けた先生は息をのみました。
「思いがけず低空にずんぐりとした黒い機影が次々と現れて来たのである。米艦載機グラマンかと思われた。機影が3階建ての水産試験場の上を過ったと思うと鋭い銃撃音が続き、これにまじって鈍く重い爆発音が2度ズシン・ズシンと伝わってきた。空襲サイレンは鳴り響く…襲ってきたグラマンは10機位だったか。やがて機影が消え、プロペラの音も遠ざかると嘘のような静けさが来た。わたしは真に安堵の思いで、一段一段踏みしめてゆっくりと櫓を下り、近くに潜んでいた生徒と顔を見合わせたのである。ほんの三分位の、しかし緊迫の体験であった。改めて踏みしめる大地のたのもしさを感じていたが、ふっと敗戦の予感を覚えた。」
生徒の無事を見届けた上元芳男先生は20年後、西中学校の校長として赴任されます。
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