余市でおこったこんな話「その267 最後の映画館」
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ボウリングブームまっただ中の昭和40年代、「ブラウン管には勝てなかった 銀幕20年ついに幕」の見出しで、「余市映劇」閉館の記事が掲載されました(昭和45(1970)年8月25日)。
余市映画劇場(余市映劇)が「竹山興行部」(後に竹山興行株式会社)によって大川町4丁目の一角に開館したのは昭和25年8月のことでした。余市映劇開館のきっかけとなったのは、それまで映画を上映するために定期的に借りていた昭和座(後の銀映座)を持ち主に返すことになったためとあります。
「こんな話その63」で紹介しましたが、昭和のはじめ、町内には大川町の余市座、黒川町の昭和座、沢町の恵比寿座と3つの芝居小屋がありました(沢町方面には他にも小林座などの芝居小屋がありました)。
古くからあった芝居小屋では観客は履物(下足)を預けて畳に座って映画を楽しみましたが、戦後に出来た余市映劇は下足を預けず、畳敷きではなく椅子席の洋風な劇場でした。
大川町の余市座は昭和8年の大火で類焼してなくなり、同12年に桜小路の西側に余市館が新たに完成して興行を始めましたが、同18年、日本陸軍運輸部船舶部隊、通称暁部隊の宿舎となって映画館としての役割を終えていました。
記事に戻ると、竹山興行部は大正5(1916)年に創業、創業者は活動弁士の竹山映洋さんでした。
活動弁士とは活動写真弁士の略称で、活弁ともいい、映画が活動写真と呼ばれていた時代、映画自体に音声がなかったので、画面の人物のセリフをしゃべったり、場面を説明する人のことです。
竹山さんは創業翌年の大正6年にキヨさんと結婚、小樽を拠点に「夫婦活弁」で人気を博し、北後志や道南の瀬棚町まで足を延ばして巡業しました。
昭和9年に映洋さんが亡くなった後、キヨさんは本拠地を余市町に移して活躍、「女傑」と呼ばれたそうです。
余市映劇は昭和32年に複数の映画館をチェーン化するために、銀映座の名称を電気館と改め、古平町の古平座、積丹町の美国座を系列化し「北後志の興行界を一手に握ってきた」とあります(古平座は『古平町史第三巻』に見える昭和26年8月15日に開館したオリオン座なのかもしれません)。
お正月になると、小樽市で新たに上映される映画を余市でも同時に封切りして、数は少なくても、町外へ出られない人、お年寄りなど熱心なファンのために努力を続けてきました。
昭和30年代中頃まで、国内の映画熱は盛り上がっていました。昭和33年には国内観客動員数が11億人を超え、同35年には年間547本の邦画が製作されました。同じ頃にテレビが普及しはじめ、同40年には白黒テレビの国内普及率が9割を超え、映画館へ足を運ぶ人が少しづつ減っていきます。
そうしてカラーテレビが普及してきた昭和41年に古平座、翌42年に美国座が閉館します。
余市映劇も昭和45年8月31日にサヨナラ興行を行うこととなり、町民に無料で入館してもらいました。竹山興行として50年余の間、北後志の映画興行の一翼を担い、余市映劇は20年間上映を続けました。
写真 今月いっぱいで姿を消すことになった余市映劇(昭和45年8月25日の新聞記事)
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