余市町でおこったこんな話 その67「衆民寮」

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昭和40(1965)年1月末の新聞紙上に「余市町に老人ホーム 衆民寮へ喜びの引っ越し」の見出しが見えます。衆民寮は『余市郷土誌』によると、昭和3年に梅川町に開設された余市養育院を前身とします。
その沿革は「孤児、遺児その他事情之に等しき貧窮子女の救護ならびに六〇歳以上の孤寡孤独の老者…(中略)…、宿泊救護、行旅病人等の救貧事業をはじめ常時季節託児、天災災害非常の臨時救護等」を目的として、「仲町四十六番地(現富沢町6丁目)大村由太郎氏所有家屋を院舎として借り受け事業を開始」しました。同年9月にはそこも手狭になったため「仲町二十番地(現富沢町4丁目)猪俣安造氏所有家屋を借り受け」て事業を続けています。これらの建物がどういった建物だったかは不明ですが、転用した建物では運営には不便だったものか、昭和6年3月1日に新たに建築されました。
昭和8年の『余市町市街明細図』には現在の富沢町の琴平団地付近に養育院が見えます。
養育院の運営は各方面からの寄付や助成金によってまかなわれていたようですが、余市町史編纂用の年表には「役場吏員高橋清吉、仲町に余市養育院(養老施設)を開設する。」とあり、そうした補助の資金のほかに私財も投じた運営がなされていたのかもしれません。同年表には、1947年10月、梅川町高橋清吉経営にかかる余市養育院、進駐軍の指示などにより町に移管され、町営として一部を改造して余市衆民寮と改称したとあります。
昭和22年7月発行の『余市町公報』第6号には「余市町衆民寮設置条例」が掲載され、この時点で余市養育院が余市町衆民寮と改称され、町営に移行されたようです。
昭和20~40年代の公報(広報)には、町内の多くの個人、区会、商店からさまざまな贈り物がされたことへの御礼が見えます。
たとえば戦後、配給食糧の遅配が続いていた時期にも、馬鈴薯、冷凍カボチャなどのたくさんの食料寄付があり、沢町少女舞踊団による慰問(昭和23年)、無料の歯科治療(昭和26年)、理容保健組合による理容奉仕(昭和26年)、余市ハッピーグループによる流行歌、寸劇、民謡浪曲、物まねなどの慰問演芸会(同年)、鮮魚店から花の苗、区会からおもち多数、余市ロータリークラブ婦人部からのタオルやバナナの寄付(昭和40年)など、たくさんの善意が寄せられました。
昭和6年に建築された衆民寮でしたが、建築後30年以上を経過して老朽化が進みました。昭和39年7月には沢町の宝隆寺境内への移転が決まり、工事は国と北海道から補助を受けて昭和39年から2年をかけて進み、ブロック建ての建物(一部鉄筋コンクリート)が新築されました。
最初に紹介した喜びの引っ越しの記事は、昭和39年度分の工事が終わって引っ越しが可能となった50名分の建物への引っ越しの様子が報道されたものです。記事によれば、1月26日にふとんや家具などが運ばれて、翌27日にお年寄りたちがそれぞれの身の回りのものを大きな風呂敷に包んで引っ越しました。女性の居住室には福寿草、梅などの花の名前がつけられ、男性の部屋にはカシワ、カシなどの木の名前がつけられました。新たな施設は部屋数が10室、ほかにボイラー室、炊事室、浴室、娯楽室、仏間などが設けられ、居住室は日当たりがとてもよい明るい部屋だったそうです。翌40年度の完成後は居住室がさらに12室増えて収容人数が100人となる規模の建物でした。
町営の衆民寮でしたが、寳隆寺住職寺井孝哉さんにより昭和38年3月に設立された社会福祉法人徳風会に同42年4月に経営が移管され、養護老人ホーム和順荘(現在のかるな和順)として生まれ変わり現在に至っています。

写真:引っ越し作業のお年寄りたち(昭和40年1月29日の新聞記事より)

写真:引っ越し作業のお年寄りたち(昭和40年1月29日の新聞記事より)

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