その128 モイレ山と切り通し

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明治の末頃、西田町長(当時)は余市町の東西の往来を便利にするために、モイレ山と現在のモイレ台団地の丘陵の連なりの掘削を行いました。この工事が行われたのは明治33(1900)年のことで、これによって役場前の通称「切り通し」が出来たようです(『むかし・余市物語-』)。
沢町方面と黒川町方面を往来する道は、モイレ山の海側の道が江戸時代からありました。しかし、その道は崖が海まで連なって傾斜のきつい峠道で、そこを越えて余市川河口近くになると道が狭くなって海が時化ると波をかぶる道でした。
前掲書によると、大正4(1915)年にも再び掘り下げられて、道幅を広くする工事が行われました。工事延長は約140メートル 、最大で約3.5メートル掘り下げられました。掘り出された土砂は登川(旧)の埋め立てに使われました。
同9年には、猪俣安造さんや但馬八十次さんらが設立した株式会社余市興業社による余市川埋立工事が開始されましたが、やはり切り通しが崩されて、その土砂が埋め立てに使われました。
昭和にはいって余市臨港軌道株式会社の運行開始前にも、切り通しの路盤が1メートルほど下げられました。これはガソリンカーの運行には厳しすぎた傾斜をゆるくするためでした(その4参照)。
その後、昭和33(1958)年の国道229号線の開通時や平成の工事によって現在のかたちになりました。明治35年の地図を見ると、すでに細い道が役場前を通っていて、切り通し部分に道が見えますが、道があっても傾斜がきつい状態はながく続いたようで、明治生まれの人には「はってこの坂をのぼった」と表現する人もいたそうです(『ひびけ』創刊号)。
時期は不明ですが、切り通しの土砂を運んで余市川の堤防を築いたり、余市橋の駅側周辺の埋め立て工事が囚人たちによって行われたことがありました。
「…看守に監督された青い服と赤い服の囚人たちが、山を掘り、その土をトロッコに入れて余市川の堤防まで運んでいた。当時、囚人達は今の黒川小学校(現在の道の駅)の辺に飯場をつくり起居していた。青い服の囚人は軽犯罪人、赤い服は重犯罪人である。…」、「看守の手うすをねらって脱走した囚人が、天内山のかげの井戸にかくれているのを町民がみつけ、警察が山を包囲して、その囚人を逮捕した…」といったエピソードもありました(前掲同書)。大正時代に小学生だった方が述懐したモイレ山や切り通しの様子が『余市文芸』に見えます。
「茂入の山は切り通しで区分され独立の山のような形になっていて、その緩斜面の若干は耕地にされていました。海を望む切り通しの崖の上の樹には、熊の骸頭やイナウ(アイヌ民族が儀礼のときに供える木幣)がたくさん祀られていました。」とあります(「坂の上の学校」『余市文芸』14号)。
また、モイレ山の反対側、モイレ台には「山遊びの実質的なもの」があったと同書中で述べられていて、「…崖には楓の根っこが露わに突き出ている、春早く雪が消えるとすぐその樹根に小刀で傷をつけて、その傷口から浸み出てくる甘い樹液を瓶に流して溜めたりしたものです。」とあります。他にも季節がかわるごとに、カタクリ、木イチゴ、栗、山ブドウ、落葉キノコといったおいしい「山遊び」が身近にありました。

写真:切り通し(昭和41年)

写真:切り通し(昭和41年)

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