その129 農業移民とリンゴ栽培

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余市川流域平野への本格的な農業移民の団体は、明治4(1871)年の旧会津藩士団による川東村(黒川村、現在の黒川町)と川西村(山田村、同山田町)への入植が最初でした(その17、34参照)。川俣兵司さんが記した『爐辺夜話』(昭和15(1940)年)は、余市町の農業移民の先駆けとなった会津団体の入植当時の様子を伝えます(『余市移住 旧会津藩士余市移住の足跡』)。大木が空を覆い、熊笹や雑草が生い茂る原野に入って、慣れない鍬を使っての開墾作業のこと、フクロウや狐、狸が鳴き、熊におびえ、鹿の大群が自分たちの居宅に近づいてえさを漁ることに驚かされました。
また、星がまたたく早朝から月の出る頃まで作業をしてもなかなか能率が上がらないこと、春は漁業の日雇い労働をし、秋は収穫した豆等を売り歩き、冬は厳寒の馬ソリに乗って仁木から小樽へ、帰りは沢町へと物産を運んでいたこと、一歩一歩開墾しても慣れない農事に心細くなり、役人となって転居するものもあらわれたこと、貧しかった生活もリンゴの収穫が安定すると、暮らし向きがよくなっていったことなどが書かれています。
また同書には、会津団体が住んだ住居での出来事として、天井に開いた煙出しの蓋を閉め忘れると、中で飼っている鶏を狙った狐が侵入してきたこと、家の主人が振り回した刀が狐の腹を裂き、畳を血だらけにしたことも記されています。
札幌などでの博覧会で高評価を得たことから、リンゴが高値で取引されることになり、栽培を目指すものが増えました。その中心は黒川、山田両村でしたが、同23年には沢町の相内徳松さんがリンゴ園を経営する傍ら、自ら育てた苗木の販売を行っていました(『余市農業発達史』)。また、梅川町の井鳥貞蔵さん、山碓町(港町周辺)の川村善太郎さんもリンゴ園を経営し、川村さんは副業として養鶏を奨励したそうです。ニシン漁の親方でも猪俣安造さん、横浜竹蔵さん、横山福次郎さん、川内藤次郎さん、大村由太郎さんらがリンゴ園を経営していました。
会津団体に続いて同12年頃、秋田団体が山田村に入植、同14年にも筑前団体が下山道村(豊丘町)へ入植しました。登町地区でも同20年代には1ヘクタール弱のリンゴ園が見られ、同地区で本格的に植栽が増えていったのは同30~35年のことでした。
『登郷土誌』に同地区のリンゴ収穫作業の様子が見えます。明治から大正にかけては、もいだリンゴを2.5貫(約9キログラム)ほど入る手かごに入れ、それを丸いかごにあけて、天秤棒で運びました。昭和になると「土そり」に積んで馬に曳かせて運びました。リンゴの収穫量が増して、長期間にわたって販売できるようになったことから、大正時代から貯蔵のための「雪囲い」がされるようになりました。これは畑地に野積みしたリンゴを燕麦の殻やカヤで覆って雪中に貯蔵したもので、こうすると春先に販売することが出来ました。
「雪囲い」は野ネズミの被害にあうことが難点だったので、次第に貯蔵庫での保存に替わっていきました。時代は下って太平洋戦争中に使われた防空壕に貯蔵したリンゴが、とてもよい状態で冬を越したので、半地下式の石蔵貯蔵庫での保存も試されました。その後は土蔵、石蔵、貯蔵庫の中へ雪を詰め込んだ雪冷貯蔵へと移り変わりました。

写真:リンゴの収穫(登地区、昭和20年代『登郷土誌』)

写真:リンゴの収穫(登地区、昭和20年代『登郷土誌』)

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