余市町でおこったこんな話 その144「戦争」

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太平洋戦争が終わって71年目の夏を迎えます。
昭和12(1937)年、日中戦争がはじまると、町内から飛行場建設や工場での労働などに動員されたり、生活物資の購入が切符制になって、砂糖、マッチ、米、木炭、石炭が配給でなければ手に入れられなくなりました。同16年に太平洋戦争へと戦局が拡大すると、お酒、お菓子、味噌、醤油、衣料品、灯油、粉ミルクなど配給の対象が更に広がりました。食糧の増産をはかるため、りんごなどの果樹が切り倒されて、馬鈴薯、ニンジン、ゴボウ、カボチャ、トウキビが植えられました。トウキビの芯は飛行機の潤滑油の原料として、食べた後の芯まで乾燥させて出荷されました。
町内には陸軍船舶部隊が駐留し(こんな話その41)、陸軍弾薬庫も建設されました。同18年末に完成した施設は登町大登地区にあって、弾薬庫と燃料庫を中心として兵舎、下士官官舎、将校官舎、事務室が並んでいました。終戦を迎える同20年6月20日、この施設が大爆発を起こしました。目撃者の証言が『登町郷土誌』に見えます。
「午前6時前、軍の弾薬庫の方向に小さな爆音が聞こえ、黒煙が2、3度上がった。我々は軍(の施設)で火災が発生したと思い、手伝いに走った。営門の50メートル近くで兵士達が、危険だから、近寄らないでくれと、叫びながら、避難して来た。間もなく、大音響と共に大爆発が起った。この爆発は第一弾薬庫であった。この時、学徒動員で勤労奉仕中の、余市中学校生徒(1名)が死亡した。」
この大惨事の原因はタバコの不始末とも言われ、集落内の建物の窓ガラスが割れたり、障子戸が壊れる被害がありました。被害は山林にもおよび、飛び散った弾薬によって山火事が何度も発生したそうです(前掲同書)。
昭和の初めころ、町内で徴兵のための身体検査が行われていたのは、大川尋常高等小学校(現在の大川小学校)でした。同校には「徴兵署」が臨時的に設けられ、検査をうけた適齢者は余市町に本籍がある者で200名前後、寄留者(余市町に本籍がなく居住している者)も検査を受けました。兵役に応ずる義務がある者は、その中から毎年100~150名が決まり、合格者の中から更に選抜されて現役兵とし徴集されたのは毎年30名ほどでした(昭和2年から同6年までの平均値『余市町郷土誌』)。
同6年の満州事変以降、合格者の枠がそれまでよりも拡大、増員がはかられました。太平洋戦争末期には地区の「ほとんどの成年男子が国民兵として戦争に動員」されることとなりました(『登郷土誌』)。
余市町から中国や沖縄、太平洋方面へ多くの人達が兵士となって行きました。
山道村(現在の豊丘町)から出征した25歳の男性からお兄さんへあてたお手紙の一節です。「~前略~、私もともすると雅之君(息子さんか)の写真を見る事が出来なくなるんではないかと考へております。祖父母様、御両親には絶対後便致します迄申し上げないようお願ひ致します~後略~」(『郷土史』)。
モイレ山中腹の明治神社には、郷里への生還が叶わなかった、日露戦争以降、676柱の英霊が祭られています。

役場での合同慰霊「登郷土誌」

写真 役場での合同慰霊「登郷土誌」

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