余市町でおこったこんな話 その166「画師にして剣客~会津藩士 栗田鉄馬」

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明治2(1869)年、戊辰戦争がおわりました。この年の9月、兵部省の管理下におかれて謹慎させられていた会津藩士団とその家族103戸333名は品川沖から出帆し、11日間の船旅の後、オタルナイに到着しました。藩主容保公の助命とひきかえに、北海道の開拓に身を捧げる覚悟の藩士団でしたが、その行き先が決まらない日々が続いていました。最終的に一時的な滞在先だった余市への入植が決まったのは、北海道到着から1年半が過ぎた同4年春のことでした。
その中にいた栗田鉄馬は、天保9(1838)年(戸籍上では弘化4年)に会津若松城下鍛治町に生まれ、太子流という剣術を幼いころから学んでいました。幕末の新政府軍との戦いでは敵を偵察するために百姓や商人に姿を変えて、仙台や米沢など東北各地を点々とし、その動静を城へ報告していたと伝わっています。
余市に入植した会津藩士団は、黒川村と山田村の2村に分かれて住宅をかまえましたが、多くは1棟5戸の長屋に入りました。明治5年の記録によると、鉄馬は26歳で17歳の妻「かの」とともに黒川村20番地(旧地番)の長屋に居を構えました。また同10年には妻の他に家族が増えて男子3人という記録ものこっています。一家はその後、居宅を返上して札幌へ向かいます。同11年、鉄馬は開拓使の画工として雇われており、栗田家が余市に滞在したのは7、8年間ほどと短いものだったようです。
平成29年3月のこと、札幌市にお住まいだった故・遠藤佳都枝さんの家族から北海道博物館にアイヌ民族のクマ送りを描いた絵画が寄贈されました。「明治五年四月 日 北海道後志国余市郡余市川村ニ於テアイヌ熊祭之眞景」と筆書きされたその絵は、鉄馬の画号「香仙」が記され、69歳の時に描かれたものです。
川村は大川町のかつての地名です。余市川右岸でアイヌの人々によって行われたクマ送りの儀式がいきいきと描かれています。綱でつながれたクマを曳く人々、輪になって踊る人々、祭壇の準備をする人々と、情景は大きく3つに分けられ、その奥のアイヌの家並みの傍らには木で組まれた飼いクマの小屋の扉が開いています。残雪の上の人の足跡、駆ける犬、子どもを背負った女性、皿に盛られた供物を運ぶ人など、服装や身に着けた道具や表情も細かく描かれ、儀式を間近で実際に見なければ描けない臨場感が伝わります。
鉄馬が開拓使の画工に従事したのは明治13年までと短いものでしたが、同20~30年代には札幌神社やアイヌの人々の風俗絵など、市内の印刷所が世に出した石版画の下絵をてがけました。
同じ時期、鉄馬は剣術家として知られ、同32年の『札幌案内』に「撃剣家」5人の一人として紹介されています。札幌の豊水尋常高等小学校(後の札幌市立豊水小学校、平成15年に札幌市立資生館小学校に統合)につくられた撃剣部「豊武会」の講師であり、元・新撰組の永倉新八とも親交がありました(三浦泰之「北海道の美術一 明治三十年代までの<美術>と出版文化」『北海道の出版文化史 幕末から昭和まで』)。
「豊武会」の講師時代には「ひげのおじいちゃん」の名前で親しまれ、友人知人に自らが描いた作品を送るなどしていた鉄馬は80歳で亡くなり、札幌の地に埋葬されました。
(本稿は4月22日に中央公民館で開催された報告会「余市のアイヌ文化を考える」の内容をもとにしています。)

写真:栗田鉄馬が「熊祭之眞景」(部分)札幌市:故・遠藤佳都枝氏旧蔵

写真:栗田鉄馬が「熊祭之眞景」(部分)札幌市:故・遠藤佳都枝氏旧蔵

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