余市町でおこったこんな話「その169 違星北斗(いぼしほくと)」

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余市水産博物館の前庭に違星北斗句碑があります。北斗は明治35(1902)年、余市町に生まれたアイヌ民族の歌人で本名を瀧次郎といいます。北斗の父甚作は漁業を営み、祖父万次郎は東京、芝の増上寺にあった開拓使仮学校に入学、卒業後は北海道開拓使雇員になりました。
『コタン 違星北斗遺稿』の略年譜などから違星北斗の短かった生涯を振り返ります。
違星の姓は、「実父 伊古武礼喜(イコンリキ)の祖先伝来のエカシシロシ(氏族の記号)が※であった。これをチガイに星、「違星」と宛て字を入れて現在のイボシと読み慣らされてしまったのがそもそも違星家」であって「心ひそかにほほ笑むのである」と書いています。
また、祖父はお酒に酔うと自慢げに「俺は役人であった」と孫たちに自慢していたのだそうです。
北斗は町内の小学校を卒業後、道内各地を転々とします。15歳の頃には夕張で木材人夫になり、その後、石狩のニシン漁場、鉱山などで働きます。大正11(1922)年に徴兵検査で合格、翌12年7月に入隊しますが病気のためか1か月ほどで除隊します。
23歳になった大正14年2月、知人を頼って上京し、公設市場を経営していた東京府市場協会の事務員として働きながら、アイヌ語研究の創始者であった金田一京助ら著名人らと交流を深めます。『アイヌ神謡集』を遺して早逝した知里幸恵のことを知り、思想や宗教などの知識を吸収した北斗は、アイヌ民族の地位の復興を目指して、北海道へ帰る決意をしました。
昭和2(1927)年、日高管内平取町に向かった彼は、イギリス人宣教師バチェラーの平取幼稚園を手伝いながら、アイヌ研究に没頭します。この年、身内で不幸があったため故郷余市に戻り、実家の漁業を手伝いますが、同じ頃に余市町内の遺跡発掘や古老の聞取りを行いました。この年にフゴッペで発見された岩に刻まれた刻画と岩偶が脚光を浴び、アイヌ民族がのこしたものとされました。これに対して、小樽新聞に寄稿した「疑ふべきフゴツペの遺跡」での北斗の反論は、古老らへの聞取りをもとにしたものでした。
また、北斗は余市川河口の大川遺跡で、銅鏡や土偶を採集しています。銅鏡は東京帝室博物館(現東京国立博物館)の歴史部長の高橋健自博士による鑑定書がつけられています(余市水産博物館収蔵資料)。土偶は長さ16センチメートルほどの板状の土偶で女性を表したものです。北海道大学の名取武光氏(当時)によると、「情熱のアイヌ青年詩人の違星北斗が後志国余市町大字大川に於いて発見されたもの」と記録しています(『北海道原始文化聚英』)。
同年末から、売薬の行商人として再び北海道内をめぐった北斗は、同年代のアイヌ民族間と親交を深めます。翌3年にかけて多くの短歌をよみ、4月に発行された歌誌『志づく』では違星北斗歌集の特集が組まれました。歌人としての評価が高まりつつあった同じ頃、持病であった結核が悪化します。郷土研究者でもあった医師、山岸礼三さんによる治療が続きましたが、翌4年1月26日に亡くなりました。27歳という若さでした。
昭和43年11月、平取町二風谷小学校の校庭に北斗の歌碑が建てられ、金田一京助の筆によるつぎの2首が刻まれました。
『沙流川ハ 昨日の雨で 水濁り コタンの昔 囁きつヽ行く』
『平取に 浴場一つ ほしいもの 金があったら たてたいものを』

 

で採集した銅鏡

写真:違星北斗が大川遺跡で採集した銅鏡

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総合政策部 政策推進課 広報統計係
〒046-8546 北海道余市郡余市町朝日町26番地
電話:0135-21-2117(直通)FAX:0135-21-2144

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