余市町でおこったこんな話「その180 大日本果汁の時代」

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大日本果汁株式会社が余市町に創立されたのは昭和9(1934)年、同27年にニッカウヰスキー株式会社に商号が変更されました。
昭和ひとケタ頃の余市町民の暮らしの様子はどうだったのでしょうか。『余市町郷土史』によると昭和9年の人口は3,690戸で19,914人、一世帯当たりの平均人数は5.39人でした(今年の5月末は1.89人)。
家屋の構造が大きく変わったのもこの頃とされています。市街地の家々は「木造柾葺(もくぞうまさぶき)平家(ひらや)」が多く土壁でできた家が稀でしたが、「昭和七年夏期、澤町方面及び黒川町の大火により」焼失し、新たに建てられたのは二階建てで土壁でできた家が増えたのがこの頃といわれています。
主食は「普通白米多く麦を混する所も少なくない。近年続く不況に際しては芋或は南瓜(かぼちゃ)を摂るところも見受けられる」
おかずは何が食べられていたのでしょうか。「概して本町の海産物、農産物を以って充たし、若干他より移入する。例えば、牛豚馬等の精肉、缶詰類、梅漬等」等がありましたが、肉類や梅漬けは自家で調達したところも多かったものと思われます。
嗜好品では「ビールは札幌ビールが最も普通で最近独逸(ドイツ)ビールも見える。キリン、櫻などのビールもかなり入っている。…(中略)…清涼飲料水としてはサイダー、オレンヂなどが多く氷水、アイスクリームなどは一時的な物であるが相当消費されている」とあります。
炭酸を使ったサイダー、シトロンが清涼飲料水の主流だった明治末には、余市町では生産されるリンゴを使ったジュース製造が試みられ、地元のリンゴを使ったサイダーが製造されたのは明治44(1911)年、リンゴや果物の加工とリンゴ酒を販売していた余市林檎酒株式会社によるものでした。天皇家へ献上したこともあったサイダーでしたが、大正時代に入る頃には廃業してしまいます。
昭和になって、余市町は町をあげて大日本果汁(株)の誘致に動きました。竹鶴さんはご自分が理想とするウイスキーを北海道で作ろうと決めていましたが、『ニッカウヰスキー80年史』によると、昭和8年には江別と余市を実際に訪れて、翌9年には笠島町長(当時)と地元実業家の但馬八十次さんの案内で、工場建設の地を余市町に決定しました。
そこからは急展開だったようです。前掲同書には笠島町長(余市町農会長でもあった)と但馬八十次さんの連名で提出された「苹果(へいか)加工々場設置方懇願書」(苹果=リンゴ)が見えます。内容は余市町の苹果が明治からの名産であること、栽培面積もお隣の大江村(現在の仁木町)を含めて千町歩(約990ha)を超えること。道内各地のリンゴや「朝鮮りんご」が進出してきたこと、価格の変動が激しいことがあって、リンゴ栽培の継続が難しく、疲弊した生産者を救済するために、竹鶴さんのリンゴ加工工場ができることは一縷の光明であって、設置を「懇願」する内容の文書です。
昭和初めの不況は同4年にアメリカからはじまった世界的な恐慌で、翌5年から6年にかけて日本に深刻な不況をもたらしました。笠島、但馬の両氏が竹鶴さんの大日本果汁(株)を何としても誘致したかったのは、不況の影響が色濃い中、余市町のリンゴ栽培を永続させたいとの気持ちからでした。

(写真)昭和はじめ頃の入舟十字街

写真:昭和はじめの頃の入舟十字街(『余市町郷土誌』)

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