余市町でおこったこんな話「その201 親方はいつ誕生したのか」

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大きなニシン番屋を建て、大勢の労働者を雇い、学校や銀行設立など地域の経済に貢献した親方はいつ頃、誕生したのか、定置網とソーラン節のはじまりを考えました。
江戸時代から盛んだった鰊漁は、江戸時代後半、10人前後で操業したと思われる笊網という大型の旋網類を用いて操業していました。やがて14~15人程度で操業する行成網という箱型(直方体)の定置網に替わり、行成網は明治の中頃には徐々に角網に替わります。
これらの大型網での作業には皆で力を揃えるために作業唄が必要でした。ソーラン節に代表される作業唄は作業の種類によっていくつかのパートがあって、総称して沖揚音頭とよばれます。この沖揚音頭発祥の地をうたう記念碑が、余市町豊浜と積丹町にあって、余市町発祥説は、安政2(1855)年にニシンを貯蔵運搬する袋状の網がはじめて用いられたのが豊浜だから、積丹町発祥説は明治18(1885)年に斎藤彦三郎さんが前述の角網を考案して漁に用いたのが積丹町入舸出岬だから、というものです。どちらが発祥かは定かではありませんが、沖揚音頭を唄う漁夫を雇い、集団を構成したリーダー(=親方)が積丹半島で誕生したのは、幕末から明治にかけてと言えるかもしれません。
余市に伝わるお話では、アイヌ語のソーラン節がありました。昭和38(1963)年に、アイヌ語地名の研究で有名な山田秀三さんが、余市町在住の今善作さんのお話を採録したものですが、日本語が混じる不思議な歌詞でした。
“ピリカメノコトトナセノモコロ ニサッタパチクルチシーコーラシ ちょい(強引に訳すれば「美しい女性と早く眠りたい 明日鳥が鳴くように」の意)”(『鰊漁覚書き』山田秀三 編註)
その親方の住居である大きな番屋建築が建てられ始めるのは、明治時代になってからです。江戸時代には運上家(屋)を拠点にした商人、アイヌ民族、道南から余市(ヨイチ場所)に出稼ぎした漁民の三者が漁業活動を担いましたが、出稼ぎ漁民は漁期が終われば母村に戻っていました。
安政3(1856)年以降、出稼ぎしていた漁民は余市にどんどんと居を構えて永住するようになり、この頃の永住者は約1,500人(同じ頃のアイヌ人口は500人弱)とアイヌ民族の3倍にもなっています。 それから30年ほど経って明治20年代になると、番屋建築が現われはじめます。この約30年間で漁網や船、蔵々を整えた鰊番屋の主人が誕生し、学校や銀行設立に力を尽くし地域の経済に貢献する実力者(=定置網漁の経営者、=親方)になります。
一例として、明治40年代の余市郡内の定置網経営者で『小樽區外七郡案内』に紹介されている13名の出身地をあげると、上ノ国出身者は4名、江差(五勝手ほか)は4名、青森県2名、新潟1名、松前1名、不明1名の内訳になっています。ニシン漁の親方の誕生は、沖揚音頭が発生した幕末頃ではなく、番屋建築を建てて、地域に貢献しうる実力を兼ね備えた明治20年代以降と言えそうです。

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図:洋装の親方(中央) 「湯内漁場盛業鳥観図」 (部分、余市町指定文化財)

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