余市でおこったこんな話「その224 竹鶴さんとワイン」

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スコットランドでウイスキーづくりを学んだ竹鶴政孝さんは、修行中にワイナリーを視察しています。

竹鶴さんの自著、『ウイスキーと私』によれば、大正7(1918)年に神戸港から出発、スコットランドへ向かった竹鶴さんは、アメリカ経由でサンフランシスコに上陸、中学校の先輩で現地にお住いの高井誠吾さんに案内されながら、州都サクラメント周辺のワイン工場を見学しました。

無事、スコットランドに到着。ウイスキーづくりの修行に励んでいた同7年から9年までの間、仕込みが休みになる毎年8月や、帰国後、立ち上げた山崎工場ではじめてのウイスキーの仕込みに着手した後の昭和6(1931)年と、複数回にわたってボルドーに赴いて本場のワインづくりを見ています。

スコットランド時代は大戦が終わったばかりだったので、旅行会社が主催する戦場視察団に加わっての渡仏でした。同6年の渡仏時は、寿屋の後継者である鳥井吉太郎さんの案内役をつとめました。

本物のウイスキーづくりの修行が目的だったのでしょうが、ワインにも興味があったのか、竹鶴さんは精力的でした。スコットランド時代の回想です。

「今から思うと自分ながらよく続いたと思うが、それも若かったからであろう。若かったからなんでもアブソーブ(吸収)でき、いちずに集中できたのだと思う。」

同9年に大日本果汁株式会社が創立され、第1号ウヰスキーが世に出てほどなくしてのこと、余市町にも戦争の影が忍び寄ります。ワインを作る過程からでる酒石酸が潜水艦などの「電探」(レーダー)製造に不可欠な軍需物資として着目され、ブドウ園から原料が大量に集められるようになります。町内で「十一州」という日本酒を作っていた余市酒造株式会社(当時)と並んで、大日本果汁でも山ブドウを原料にして「葡萄酒」を製造しました。酒石酸を得るために作った「葡萄酒」は砂糖を添加して「甘味葡萄酒」として発売したそうです。

同20年代後半から30年代まで、社名がニッカウヰスキーと変更された後も毎年、2~5万kg程度のブドウを買い入れています。その頃の同社の図面を見ると、現在の正門南側(向かって左側)に「ブドー工場」という施設がありました。酒石酸の製造が終わった後に買い入れていたブドウは、リキュール製造の原料としたものかもしれません。

平成29(2017)年、サントネージュ・ニッカ余市ヴィンヤード株式会社に関する報道がありました。同社に関係する先達に高野正誠(たかのまさなり)さんがいます。高野さんは明治10(1877)年に山梨から渡仏、本場のブドウ栽培からワイン醸造までを学び、甲州種(日本の固有品種)で国内初の本格的なワイン醸造を始めた方で、山梨のブドウとワインの礎を築かれました(同社ホームページより)。

竹鶴さんは『ウイスキーと私』中でワインづくりにふれて、高野さんのお名前を挙げられています。なにかの縁なのかもしれません。

「さて当時のウイスキーはイミテーションであったが、ぶどう酒は醸造用ぶどうの栽培から始めるという地味で採算のとれない困難な仕事に一生を賭けた人はたくさんいた。…中略…(高野正誠さん他のお名前を列挙して)日本の洋酒界は永くたたえるべきであろう。」

フゴッペのトンネルとフゴッペ川周辺の様子(大正初期の漁場「栄町郷土史」)

図:かつてブドー工場があった事務所棟

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