余市でおこったこんな話「その226 詩人 和田徹三 その2」

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前号に続いて、詩人で英文学者の和田徹三さんのその後です。
余市町大川町の商売(醤油味噌醸造業)の一切を取り仕切っていたお母さんが亡くなって、土地建物一切はカクサン猪股家に売却され、一家は小樽の住之江町にあった貸家に転居しました。
大正12(1923)年、14歳になった徹三さんは、北海道庁立小樽中学校(後の小樽潮陵高校)に入学します。
徹三さんは、お祖母さんをとても慕っていました。
「学問をすることは自分のからだに本当の財産を積むことになる。お金は使えばなくなるが、学問は決してなくならない。こういう機会(本人が希望すれば大学までは進学させるという叔父さんとの約束があった)を利用しなければ、かならず後悔する時が来る」と説得をうけた徹三さんは受験を決意し、合格します。一番喜んでくれたのもお祖母さんだったそうです。
中学校3年になって、徹三さんは建築家になることを夢見ました。叔父さんに相談したところ、「下宿代がかかるので地方には出さない。北海道帝国大学か小樽高等商業学校に進学するのがよい」といわれ、昭和3年(1928)年、自宅から歩いて通える小樽高等商業学校に入学しました。
高等商業学校時代に、徹三さんは岡崎信男さんに出会います。岡崎さんとは小樽中学校時代の同期でしたが、商業学校時代に親交を深め、「詩に開眼させてくれた恩人」となりました。
「岡崎は当時百田宗治が厚生閣から出していた投稿雑誌「今日の詩」の常連で、彼の詩を読ませてもらったり、安西冬衛の『軍艦茉莉』や北川冬彦の『戦争』をはじめて見せてもらった。ひどく感激した私は、その後この二冊を自分でも買い求めた。」(「全集五巻の上梓を終えて」)
「在学中のことをふりかえると、まず胸に浮ぶのは浜林生之助先生の講読である。発音がきれいな上にやわらかで、どこからこんな言葉がでてくるかと思われるほどの名訳であった。…中略…さて、学校を出てぶらぶらしている大きな姿を叔父の目にさらすと、またうるさい小言を浴びると思い、石倉にとじこもって読書にひたっていた。すると、叔父が入ってきて、学校を出て本を読むバカがどこにいる、就職口でも探して来い、と怒鳴られた。」(前掲同書)
小樽高等商業学校を卒業した後、さらに進学して、文学を志したいと考えましたが、叔父さんの強硬な反対でそれは叶わず、また当時は昭和の金融恐慌の余波が北海道経済にも大きく影響があった時代で、正式な就職先もなかなか見つかりませんでした。
「…小樽高商を卒業したのは昭和六年三月で、ひどい不況の年であった。卒業式までに就職口のきまったものはほとんどいなかった。」
翌7年、小樽市立第一高等小学校(後の小樽市立菁園中学校)の代用教員として就職し、後に職員になります。私立札幌光星商業学校(後の札幌光星高校)や北海道八雲中学校(後の北海道八雲高校)、北海道庁立札幌工業学校(後の札幌工業高校)の教諭となり、昭和20年代には札幌短期大学(後の札幌学院大学)で教鞭をとります。札幌大谷短期大学の運営を経て、北海道薬科大学教授など教育の現場に立ち続けながら、詩人としての活動は止むことがありませんでした。
前号で紹介した博物館前の詩碑の地下には『和田徹三全集』5冊が納められています。

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写真:「埋蔵本全集五巻」と記された和田徹三詩碑の台座

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