余市でおこったこんな話「その256 熊 その2」
トップ > まちの紹介 > 余市でおこったこんな話 > 2025年 > 余市でおこったこんな話「その256 熊 その2」
今年は熊出没のニュースが、町内外問わず多い年です。原因のひとつには木の実など、熊が食べる食物が森の中に極端に少なかったことが指摘され、食物を探して広範囲を移動する熊が、人間の生活圏に出没したからだと言われています。
余市アイヌの熊にまつわる逸話があります。大正時代の初め頃、町内にいくつかのヌサ(アイヌ民族の祭壇)がありました。余市川とかつて合流していた登川右岸付近やその対岸、余市川河口の右岸、ヌッチ川付近にあったそれらのヌサは、町並みの整備に伴なって、モイレ山頂上の西側に集められて祠が作られました(『余市水産博物館研究報告第14号』)。
祠は高床式で高さ奥行きとも1.5mほどの大きさで、その中にイナウ(アイヌ民族の祭具)、漆器、クマ、キツネ、シギなどの頭骨が納められていました。
社殿の簡易版のような建物に、アイヌ民族の信仰の対象が安置されたのは、和人とアイヌとの文化の交流があったからなのでしょうか。
町内の方の記憶によると「昭和29年の洞爺丸台風で吹き飛ばされるまで、モイレ山頂のシリパ側の岩上にイナウを祭っていた」とされていますが、現在はその痕跡はありません。
「こんな話」でとりあげたアイヌの歌人、違星北斗さんの違星家にのこっているお話です。余市付近で熊狩りをした時に怪我をしてから、余市
では熊狩りをせず、樺太(サハリン)でするようになった理由について。
「(怪我をしたのは)余市付近の熊の家族に対して、何か自分の仕草が気に入らない所があったに違いないから、余市付近で熊狩をすると祟りが恐ろしい。然し樺太では熊の家系も異なっていると思うから、それ相応の神祈(お祈り)をして狩に出れば大丈夫」というのです。
アイヌ民族にとって熊は狩の対象でしたが、大切にしなければならない山の神様で、狩りの時、熊送りの時に儀式をおこなって神々との良好関係を願いました。
昭和20年代、竹鶴政孝さんは地元猟友会の会長だったことがあります。戦後、連合軍の軍政部から、道民に対して刀剣や銃砲を差し出すように命令が出ましたが、熊など獣害に対応するために猟銃はなくてはならないものでした。
そこで竹鶴さんは当時、札幌逓信局を接収して置かれていた、東北・北海道地区の占領を指揮する第九軍団の司令官ライダー少将に会い、屯田兵時代からの北海道の歴史を伝え、銃の必要性を訴えて、認められたそうです(『ウイスキーと私』)。
ニッカウヰスキーの博物館に、仕留めた熊と一緒に写っている竹鶴政孝さんの写真が展示されていたことがあります。
ある年の4月、雪解けの時期、3人の熊狩りの仲間で「アイヌ岳」(湯内岳か)に向かい、それぞれが離れて待ち構えていました。
竹鶴さんがいるところへ大きな熊が近づいてきたので、充分に引きつけて鉄砲を撃ち、二発目で倒すことができました。280kgの雌熊でした。
竹鶴さんの熊に対する思いです。
「内地にも熊はいるが数においても又大きさから云っても北海道のそれと比較にならない。北海道の熊はたしかに日本一の猛獣である。」(「熊を捕うるの記」『月刊郷土誌よいち』創刊号)
写真 仕留められた熊と人々(豊丘町『郷土史』)
この記事に関するお問い合わせ先
総合政策部 政策推進課 広報統計係
〒046-8546 北海道余市郡余市町朝日町26番地
電話:0135-21-2117(直通)FAX:0135-21-2144


























